日常の出来事から思ったこと・考えたことをメモっておく。
つらつら書いたら長くなったし、自分用の読み返す用のメモなので、他の人があまり真剣に読むものでないです(汗
とある日のできごと
平日午後にジムに行った。土日は混むので、空いているから良い。
器具を使っている人数は10人行かないくらいか。値上げしてからだいぶ減ったかもなぁなどと思う。
今日使う器具は決まっているので、いつものように1器具15分 x 4種類のルーティーンをこなす予定。
レッグエクステンションを始めて、1セット10回が終わった時に話しかけられた。 基本的にみんな一人で来て黙々とやるので、話しかけられるのは珍しい。
話しかけてきた相手は、年齢は70代後半から80代前半くらいだろうか。 見た目、高齢者、おじいちゃんという印象。 このジムに平日に来る人は年齢層高めだけど、その中でも高めな印象。
最初聞き取れなかったけど、聞き直すと「まだ、かかりますか?」とのこと。
あー、この器具がやりたいのか。時間を見ると残り7分くらいはあるな。 「もう少しで終わりますよ。」と一応答える。
こちらが使っている最中に器具を使わせてほしいと言われるのは、2回目でかなり珍しい。 言われるとやっぱり、「早く終わらせないと」という思いと、「自分のペースでやればいい」という思いが葛藤する。
「ちょっと早めに進めるか」と決めて再開する。
話しかけてきた相手は、隣の器具に座って、こちらをじっと見て何もしていない。単に待っているという姿勢。 「やりにくいなぁ」と思う。
レッグエクステンションはもう一台、奥のスペースにあるはずだよなと思い、目を向けると、誰も使っていない。
「なんだよ」と思い、じっとこちらを見つめる高齢者に向かって、「あっち空いていますよ。」と伝える。 「えっ?」と聞き返されたので、「あっちに同じ器具があって、空いていますよ。」と大きめに言う。 相手は指差したほうも見ずに変化なし。こっちを見続けて待っているだけ。
「おいおい、わざとかよ」と思い怒りがこみ上げてくる。 空いている器具があるのに、わざわざ人が使ってるのを邪魔したいだけか? 結局、早めに切り上げて「どうぞ」と譲った。
その高齢者は「あい」とだけ言った。 「ありがとう」ではなかった。それでさらに怒りが増したが、口には出さずに、空いているもう一台のレッグエクステンションに移動して続けた。
この時は「なんで人のじゃまをするのだろう」とか「高齢者だから言えば当然やってくれると思っているのだろうか」とか、色々考えてしまった。
その後悶々とする
結構大きな怒りが残ってしまったので、家に帰ってからも考えてしまった。
「単に意地悪のためにやっていた訳ではないよな」 「もう一台あることを知らなかったのかな」 「いや、あの人は結構前から見かけたことがあるから、もう一台あることは知っているだろう」
とかとか、答えのない問みたいな感じでくるくる考えていたら、ふと新しい考えが出てくる。
「もしかして、もう一台あることがわからなかった・認知できなかったのかな?」
見えなかったとか、目の前を通ったことはあるけど、忘れちゃっていたとか。 高齢だとありえるのかな。と思った。
妻に確認してみる
妻は仕事上、高齢者を相手にしていた経験があるので聞いてみようと思い、夕飯時に今日の出来事や思ったことを話してみる。
すると、「多分、わからなかっただけだと思う」 「単に目の前をものをやりたい、だから待っていただけ」 「歳を取るとだんだん認知ができなくなるから、子どもと同じようになる」 とのこと。
やっぱりそうか。気づけなかった・わからなかっただけか。
その場で怒らなくてよかったと思う。
老いを許容できるか
今まで、祖父や祖母の様子から高齢者の振る舞いはわかっていたつもりだったけど、実際わかってなかったのだなぁと思った。
自分はその場で腹を立ててしまって、その後、考え直すことができたけど、その場の感情で怒ってしまったら、 あの人がもし認知できていなかったら、きっと怒られたことに困惑して傷つくだろう。
気づくはず・わかるはずという前提で対応したり、考えてしまうと外れてしまうのだな。
今後、高齢者の振る舞いを許容できる自分でいられるか。自分に問われた気がした。
未来は老いを許容してくれるか
今回は自分が高齢者に対しての把握不足があっての出来事だったけど、自分が逆の立場、高齢者になった時に確実に訪れることだなと思った。急に不安がこみ上げる。
自分が老いた時に、逆に、社会は許容してくれるだろうか。世の中は許してくれるだろうか。
批判されるだろうか。批判された時に自分はおそらく憤れないだろう・反論できないだろう。 謝るしか無いのかもしれない。 よく謝っているおばあちゃんの姿を見かける。
許してくれない世の中を批判することはできないだろう。 自分の能力のなさを差し置いて、批判するのは単なるおごりだから。
能力はなくもうできないのに、できるように努力するだろうか。 努力できたとしても、能力は上がらないだろう。
効率化はもう成り立たないかもしれない
日常を見ると、コンビニ、スーパーでの支払で時間がかかるのは、だいたい高齢の方が多い。 スーパーやダイソーは、セルフレジが導入されている。もたつくのはほとんど高齢者。
それ自体は全然悪いことでもなんでも無い。それを攻めるような理由はない。それは単なる傾向だから。 ただ、それを許せないとか困るとか思う人も出てきて、事件やニュースになるかもしれないなとも思う。
昔テレビで、マクドナルドのアルバイト同士のミーティングで、直近の目標を「一人あたりの対応時間の短縮」をあげていた。 それは高齢社会では無理だろうと思う。もう単なる効率化は、成り立たないだろう。
しょうがないが成り立つか
「しょうがないこと」としてどれだけ社会は許容できるだろうか。今後許容できるようになっていくだろうか。
個人の思いとしては、許容できる世の中であってほしいと思うが、貧困率が高まり、今のような状態が続けば、難しいだろうとも思う。
ひとりひとりに余裕がない。経済的貧困は必ず心理的貧困につながるので、先々の方が難しいと思う。 「心に余裕がない」時代。
思えば、高齢社会になることは年代別人口分布を見れば、何十年も前から容易に想像できた。 高齢者に負担を強いる仕組みは作られたが、社会が高齢者を許容する視点での対応策はない。
自分があの方の年になるにはあと25年から30年後くらいか。
その時社会はどうなっているだろう。
社会はその時、色々できなくなっている自分を受け入れてくれるだろうか、許してくれるだろうか。