最近、仕事でお世話になっているコミュニティーエンジンの ringo さんと打ち合わせの帰り道での会話。
- d_sea : プロジェクトマネージャ(PM)って、今までの経験上、「この人すばらしいPMだ!!」って思った人は一人もいないんですよね~
- ringo : 僕もそうだなぁ。。。
- d_sea : そう言えば、これができれば PM としてOKという明確なものがないですね。スケジュール管理だけではないし、会議に出ていれば良い訳でもない。実は PM って、イメージだけの言葉なのかも。。。
- ringo : それはおもしろい!!PM という仕事の実体は実はないかも。
こんなことを話した訳だけど、ちょっと振り返っても実はかなり的を得ている気がしている。
ここ3年くらい前から確信していることとして、「平均的なスキルを持った人が20人いたとしてもできないことがあって、スペシャルな一人がそれをできてしまう世界が確かにある」ということ。
これは特にネットのサービス作りで顕著な気がしていて、スキルの高い最小人数ですごいパフォーマンスで作り上げるのが一番早いという結果が出ている。あまり日本では表に出ない事実かもしれないけど、結果を残せているサービスには必ずそういうスペシャルな人がいるはず。
そういう現実がある一方、この PM とか PL とか言う響きは複数人で行う際に前提とされる象徴的な言葉かと思っている。
PMとかPLだから偉い。みたいな印象が結構強くって、あとのメンバはそれに従う歩兵みたいな感じがする。本当は偉いとかはプロジェクトを取り組む際に全然意味をなさない項目なのだけど、妙にその印象が強くついてしまう現実はあるかと思う。
その偉い PM が実は何ができれば良いのかの定義がなかったことに気づけたのはすごく面白かった。
もう少し考えると、集団主義的な発想で解決する時に PM がコミットすべき TODO が実は決まってないということは、人の数はそれなりにいるが機能してない人が出やすくって、しかもそれが偉いと思われやすい PM だったりするのはかなりのクリティカルポイントだと思う。
自分の経験上、Enterprise SI の SE をやっていた時に必ず PM とか PL を立てて案件を取り組んでいたのだけど、最もパフォーマンスが悪かった(案件に対して直接的に推進する力になれていない)人は PM だったりする記憶がよみがえって、つじつまがあった。
別に集団主義を否定している訳でもなんでもなくて、ネットの世界で新しいアプローチをしようとした場合にはムダとかパフォーマンスをしないとかはいらないことなのは明らかなこと。そこで集団主義で複数名で解決する手法をとるにせよ、ちゃんと自分の役割や TODO くらいは明確化してないと、どうにでもなってしまう危険性を元々はらんでいるということを分かっておいた方が良いと思った。その原因が偉いと思われて気を良くしている PM の機能不全だったりするとプロジェクトとしては本当に不幸な自体になる。
今回は今思う自分なりの確信になったのだけど、今後自分が本当にすばらしいPMだ!!と思える方に出会えたら、この確信はまた変わるんだろう。
その前に仕事のやり方が全く変わって、オンライン上でそれぞれが流動的に関わり合いながら、完全にフラットな体制でプロジェクトを取り組むことが当たり前な世の中になっているかもしれない。
自分としてはそうなってくれる方が面白いし、実際その兆候は現れていると思っている。